芥川龍之介の名作「蜘蛛の糸」。
教科書にも載っているほどの作品なので、多くの方が一度は読んだことがあると思います。
比較的短い作品ではありますが、中身がとても深く、読み終わった後は考えさせられるというのが芥川作品の特徴。
今回は、「蜘蛛の糸」のあらすじや名言、そしてそこから学べる教訓について見ていきたいと思います。
芥川龍之介の不屈の名作「蜘蛛の糸」。メッセージがハッキリしているので、小学生から中学生、高校生、社会人と色々な年代の人にオススメですよ!
蜘蛛の糸の登場人物
カンダタ
殺人や放火、強盗などあらゆる悪行に手を染め、死後は血の池地獄に落ちた罪人。
地獄で苦しみながら毎日を過ごしている。
生前に一度だけ、蜘蛛を殺さず助けたことがある。
お釈迦様
仏教を説き、人々を幸せへと導いた人物。
地獄に落ちたカンダタを見て、何とか助けてあげようと思い蜘蛛の糸を垂らす。
あらすじ
極楽の散歩中、蓮池を覗き見た釈迦は、罪人たちが苦しみもがく姿を目にします。
その中に、カンダタを見つけた釈迦。
彼は殺人や放火、窃盗などの重罪を犯した泥棒だけれども、一度だけ林で小さな蜘蛛を踏み殺さず助けたという善行を行ったことを思い出します。
そこで、釈迦はカンダタを助けてあげようと思い、彼にめがけて一本の蜘蛛の糸を垂らします。
暗く苦しい地獄で、一本の糸を見つけたカンダタ。
見上げると、天から垂れてきていることが分かり、これを登っていけば地獄から脱出できると考えました。
早速、細い糸につかまって地上めがけて登りだしたカンダタですが、ふと疲れて下を見ると数人の罪人たちが自分の下で糸をつかんで登ろうとしています。
ただでさえ細い蜘蛛の糸、こんなに大人数でつかんでいたのでは途中で切れてしまう。
そう思ったカンダタは、下の罪人たちに「この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。」と怒鳴ります。
その瞬間、糸はカンダタの真上で途切れてしまい、結局彼は地獄の底へ堕ちて行きました。
それを見ていたお釈迦さまは、自分だけが助かろうとし、また地獄へ堕ちていったカンダタを浅ましく思い、悲しみの中蓮池から立ち去ったのでした。
蜘蛛の糸はストーリーも短いので、短時間であっという間に読んでしまえますよ。小学生にもオススメ!
名言
名言1
「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」
悪党のカンダタが、林で見つけた蜘蛛を踏みつぶそうとしたときに、思い直してやめたときの言葉です。
どんな悪党にも人の心は宿っていて、慈悲の瞬間があることを教えてくれます。
また、どれだけ小さな善行も見ている人は見てくれているということが分かる場面でもあります。
名言2
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己おれのものだぞ。お前たちは一体誰に尋きいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
蜘蛛の糸をつかんで登ろうとする他の罪人たちにカンダタが放った言葉です。
蜘蛛の糸は自分のものというわけではないのに、自分が助かることばかりを考えて勝手なことを言ってしまったカンダタ。
私たちも、実生活の中で自分だけの利益を考えたり、損得感情で物を決めていたりしないか考えさせられる台詞と言えるでしょう。
名言3
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
罪人たちを蹴落とそうとした瞬間切れてしまった蜘蛛の糸。
その後の一節です。
どこか物悲しい雰囲気を漂わせますが、この一節から人間の愚かさや虚しさが伝わってくるような気がします。
名言4
自分ばかり地獄からぬけ出そうとするカンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
蜘蛛の糸が切れ、また地獄へ堕ちていくカンダタを見たお釈迦様の様子が書かれています。
自分のことばかり考え行動しているという姿は、いつどこで誰に見られているか分かりません。
「浅ましい人だな。」と思われてしまわないように、常に自分を振り返り自己中心的な思考や行動になっていないか注意をする必要があることを教えてくれる一節です。
また、一度チャンスを逃してしまうと、二度目はなかなかないということを思わせる物語のつくりにもなっていて、現代社会においてもこのことは深く通じていると言えます。
教訓
縁の大切さを感じる
お釈迦様とカンダタは、蜘蛛の糸という縁で繋がっていました。
生前カンダタが蜘蛛を助けたことから、お釈迦様の目に止まり、そこから縁ができたのです。
ですが、カンダタの真上で結局糸は切れてしまい、そのまま地獄に落ちることに。
これは、お釈迦様とカンダタの縁が切れたということを表す一節にもなっていると言えるでしょう。
私たちは、どれだけ相手を助けたくても、また助けてほしくても、縁がなければ繋がることができません。
仏教では縁の繋がりをとても大事にしています。
縁が切れてしまった後は、静かに蓮池を立ち去るお釈迦様。
カンダタの生前行った善行は、蜘蛛を殺さず助けるというものだけだったため、その後はもうどうしようもなかったのだと考えられます。
このように、縁はとても大切なもので、一度切れてしまうとなかなか繋ぎ合わせることは難しいものだということが分かります。
私たちも、一度縁を切った相手と仲を取り戻すのはなかなか難しいもの。
縁の大切さを感じ、日々感謝して生きていくことが尊いことだと言えるのです。
自分のしたことは自分に返ってくる
カンダタは、蜘蛛を殺さず助けたという生前の行いから、地獄の中にいても蜘蛛の糸をお釈迦様に垂らしてもらうことができました。
また、その糸を登ろうとしてきた他の罪人たちを蹴落とそうとしたから、糸が自分の真上で切れてしまいました。
このことから、自分のしたことはやがて自分に返ってくるということが分かります。
それは、いいことも悪いことも両方そうなのです。
そう思えば、人に親切にしたり、助け合ったりすることの大切さを改めて感じることができますよね。
また、誰かに意地悪をされたときでも、「いずれあの人も誰かに意地悪をされるようになるだろう。」と考え、クヨクヨ悩まずに済むようになります。
自己中心的な考えでは幸せになれない
この物語で注目して欲しいのは、蜘蛛の糸はなぜ切れたのかということです。
カンダタ一人で地獄から相当高い所まで登ることができていたわけですが、実際他の罪人が下から登って来ていたから切れてしまったのかというとそういうわけではなさそうです。
蜘蛛の糸が切れた瞬間は、カンダタが「この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。下りろ!下りろ!」と叫んだとき。
つまり、カンダタは自分の声の衝撃で蜘蛛の糸を真上で切ってしまったということになるのです。
このことから、自己中心的な考えはやがて身を滅ぼすこととなり、決して幸せにはなれないということが分かります。
もしカンダタが「皆で地獄から抜け出すために、順番を守って慎重に登ろう。」と罪人たちに声をかけていたら、結果は違っていたかもしれません。
何か利益が出そうなときは、どうしても独り占めしたいという考えが頭を過るものです。
ですが、一旦立ち止まって、より多くの人が幸せになるにはどうしたらいいのかを考え直すことが必要となるのです。
チャンスはそう何回もない
お釈迦さまは蜘蛛の糸が切れた後、蓮池から立ち去ってしまうため、カンダタの上に糸が垂らされることはもうありませんでした。
せっかく一度は地獄から抜け出せそうなチャンスをつかんだカンダタですが、自分でそれを逃してしまうことに。
私たちも、一度つかんだチャンスを逃すと次はもう取り戻せないということがありますよね。
失敗することは決して悪いことではありませんが、ここぞというときには集中して能力や結果を発揮しないと、そう何回もないチャンスを活かせないということが起こってしまいます。
チャンスをつかむタイミングや、それを逃さない大切さをこの物語は教えてくれていると言えるでしょう。
制度にはあいまいな点が多い
蜘蛛の糸を読んでいて「カンダタが蜘蛛を助けたくらいで糸を垂らしてもらえるのなら、他の罪人の中にも生前善行をした人が大勢いるのでは?」と感じた方もいるはず。
実際、地獄に落とされる人と天国へ行く人の決定的な違いはこの物語の中には書いておらず、天国と地獄を作ったお釈迦さまは蓮の池から眺めているという設定になっています。
そのため、なぜお釈迦さまはカンダタにのみ蜘蛛の糸を垂らしたのかというところも詳細は分かっていないままです。
実際、私たちが社会で受け入れている制度においても、あいまいな点が多いものってありますよね。
上の人の都合で平気でルールが変わってしまったり、期限がどんどん延長されたり…と、はっきりしないなぁと感じることもあると思います。
それは今に始まったことではなく、この作品が発表された大正時代から、それよりももっと前からあったことなのかもしれません。
当時の芥川龍之介は、そういった制度のあいまいさにも触れたくてこの作品を書いたのかもしれないと思うと、読み手の受け取り方も変わってきますよね。
蜘蛛の糸が伝えたいことまとめ
いかがだったでしょうか?
蜘蛛の糸は話自体が短いので小学生でも読みやすいと思います。
短い話の中にも色々な教訓が詰まっていますので、ぜひじっくりと読み味わってくださいね。
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